黒博物館 館報

黒博物館 館報
vol.6 (6/28更新)
元祖バネ足ジャックである『スプリンガルド』のウォルター・デ・ラ・ボア・ストレイド卿には実在したモデルがいる。アイルランド貴族、ウォーターフォード侯爵ヘンリー・デ・ラ・ボア・ベレスフォードである。
1811年生まれで、バネ足ジャック初登場の1837年には26歳で独身。父親のジョン・ベレスフォード公はアイルランドとイングランドに広大な領地を持つ富裕貴族だった。一人っ子だったヘンリーは、何一つ不自由なく育てられたので、わがままで自制心のない悪戯っ子になった。
黒髪のハンサムで、ロンドンの別邸で暮らしていた。眼が大きく飛び出しており、あだ名が「出目金(ポップ・アイ)」だった。友人たちは陰ではそう呼んでも、面と向かってあだ名を口にする者はいなかった。ヘンリーは大柄で、喧嘩早い乱暴者だったからである。ウインザーのイートン校での中学時代には、悪童仲間と校舎の屋上から、下を通りかかる先生たちに小便をかけて捕まり、懲罰にかけられたこともあった。オックスフォード大学時代には集団で闇討ちに遭い、殴られて負けた悔しさから、首謀者の家をたたき壊したこともあった。
腕っ節の強さはスポーツでも発揮され、オックスフォードの8人乗り競漕ボート(カレッジ・エイト)のベスト漕手に選ばれている。反面、金にものを言わせるギャンブラーであり、美男子なので女性にももてた。天下に怖いものなしの放蕩(ほうとう)貴族として悪名高く、喧嘩は日常茶飯事で、そのたびに警察ざたになっていた。バネ足ジャックの正体が放蕩貴族ではないかという噂が出たとき、警察もまず彼に目を付けた。
でもそんなことはどこ吹く風と彼の悪行は続く。友人は後年、彼の所業をこう記している。「若きヘンリーは賭博場と娼家の常連で、いつも泥酔してならず者や娼婦と野卑な冗談を飛ばしていた。教会に巨大なブラッドハウンド犬を連れていき、牧師にけしかけて脅かしたり、旅館で客のベッドにロバを寝かせて、宿泊客を驚かせ喜んでいた。賭博場で大負けを喫し、腹立ちまぎれに高価なフランス型大時計を、拳の一撃でめちゃめちゃにしてしまったこともあった。アイルランドでは汽車の衝突場面が見たいと鉄道会社に命じて蒸気機関車2輌を調達し、同じ線路を向かい合わせに走らせて正面衝突させ、その現場を仲間と見物して大笑いした。もちろん鉄道会社には莫大な破損料を支払った」
ともかく、非常に破天荒な人物だった。ボクサーでもあり、腕力があるからパンチが強く、機嫌が悪いと街に出かけて強そうな男に喧嘩を売り、ノックアウトして憂さ晴らしをしていた。時には相手が強すぎてのされてしまうこともあり、友人たちが慌てて自宅に担ぎ込んで手当てした。命懸けの乱暴者だった。馬術にも長けていたので、馬に乗ってビルの屋上から向かいのビル屋上に飛び移ったりしたこともあった。
このような人物だったから、奇行ぶりがよく新聞種になった。しかし善行も報じられている。1838年6月21日付のタイムズ紙によると「ウォーターフォード侯爵がアイルランドの郊外を旅行中、自分の馬車を追い越していく素晴らしい馬を見つけた。さっそく持ち主の農民と交渉して高い値段で入手した。ところがその馬が暴れて農民にケガを負わせた。侯爵はすぐさま馬車を降りて、腕力にものを言わせ馬を押さえ込んだ。そして農民を病院に運んで手厚い手当を受けさせて費用を負担し、馬も返してやった」という。
ちょうどバネ足ジャックが頻繁に出現していたころ、彼は病気と称してしばらく人前に姿を見せなかった。
頑強な男なので長患いは珍しく、友人たちも仮病を疑い、裏で新しい悪戯遊び・バネ足ジャックに浸っていたのではないかと思っていた。現にジャックのマントの内側にWの縫い取りが目撃されたことがある。「ウォーターフォード」の「W」である。大学の仲間には機械工学の専門家がいたので、漫画のように密かにバネ足を作らせたのかもしれない。
31歳で美女と結婚後は、こうした悪戯とは縁遠くなった。1859年3月末、彼はカラモアへ狩りに出かけた。馬でキツネを追いながら小さな柵を越えようとして失敗、落馬して首を骨折し、即死した。享年48。バネ足ジャックの正体にしてはあっけない最期だった。


